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第六回 『三国志』に登場する書家      ~政治家としての鍾繇~ 


 梁(年表参照)の庾肩吾は『書品』を表し、能書家を九段階(注1)に分けて評価しました。その中で、「上之上」すなわちもっとも優れた人物として、後漢の張芝、魏の鍾繇、東晉の王羲之の三人を挙げています。後世、「書の三絶」と称すようになったのはここに由来しています。
 
 三人とも能書家として有名ですが、張芝は、推挙されても生涯任官せず、王羲之は右軍将軍・会稽内史を退官して後、官職には就きませんでした。
 しかし、鍾繇は、能書家としてよりも実は政治家として大変有名なのです。今回は、彼の政治家としての面をご紹介します。
 
 まずは伝記の中から、三国志ファンの人ならよくご存じの「官渡の戦い」でのエピソードをみてみましょう。
 
 AD200年、曹操は袁紹(えんしょう)と官渡の地で激突します。圧倒的な勢いで攻めてくる袁紹に対して曹操は手痛い打撃を受けました。その時、鍾繇は馬2千余頭を送り曹操軍に供給しました。この後、曹操は袁紹に勝利することになるのですが、曹操は「送ってくれた馬は緊急の役に立った。鍾繇の勲功は昔の蕭何(注2)にも匹敵する」と述べています。
 
 鍾繇は、後漢のとき孝廉(官吏登用科目)に推挙され、尚書郎(詔勅等を扱う事務官)として官吏の道を歩み始めます。曹操のもとでは長安郡太守(郡の長官、今でいう知事)に、さらに魏が建国されると相国(丞相、今でいう総理大臣)となり、最終的には大傅(皇帝の補佐役)にまで昇進しています。
 
 大まかな経歴をみただけでも、魏王朝で重要な役職についていたことがわかります。彼自身、「薦季直表」の中で、「臣繇言、臣自遭遇先帝、忝列腹心。(注3)」と述べています。

諡(第2回参照)を成侯といいますが、「功高く徳盛んで、位は師保(天子の師)に当たる」としてつけられたものです。ここからも彼の政治家としての業績を窺い知ることができるかと思います。
 
 
           
 
 
 注1:評価の近い部分をひとまとめとし、大きく分類して上中下三つの等級にわけ、それぞれをまた上中
    下の等級に分けて9段階になっている。

 注2:漢の高祖(劉邦)の腹心、漢建国に貢献した。漢の三傑の一人。因みに鍾繇の息子の鍾会は張良
    にたとえられている。

 注3:内容は以下の通り。「私(鍾繇)は先帝(曹操)にお会いしてより、腹心の列に加えていただきまし
    た。」